2020年度前期発表5 1990年代以降の日本における「宗教」の受け止められ方、論じられ方、そして役割

発表者:杉平敦

1、基本的な問題関心

 1990年代半ば以降、オウム真理教事件をはじめとするいくつかの事件を経て、我々は「宗教」という言葉を聞くだけで「危ない」「怪しい」と感じるようになった。しかし、本当に「危ない」のは事件を起こした特定の教団や個人であり、宗教全体が「危ない」わけではない。また、本当に「怪しい」のは、奇妙な行動をする教団や個人以上に、それらを知ろうともせず「怪しい」ままにしておく我々の方だ。にもかかわらず、「宗教」というあまりにも大雑把な概念で物事を括り、それら全体を忌避するのはなぜか。

 そもそも、宗教を「目に見えないものを、信じたり、畏れたり、敬ったりすること」と捉えるならば、それは多かれ少なかれ誰しもが日々の生活の中で半ば無意識に実践しているものだ。にもかかわらず、今日の日本で特に「宗教」と呼ばれるのは、自分たちが意識した特定の宗教団体・宗教活動に限られる。自分たちが日々宗教的な実践をしていることを考えれば、こうした忌避や差別は不当なものと言えよう。

 それでは、我々自身が無意識に実践している宗教に気付くには、どうすれば良いか。それは、科学的合理性だけでは説明のつかない価値観・習慣・出来事を、日常の中に見出していくことによってである。例えば、マックス・ヴェーバーは大著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において、一見いかにも合理的に見える近代資本主義の精神について、その源流にプロテスタンティズムの倫理という非合理なものの存在を指摘してみせた。これは、特に足りないものや欲しいものがなくても、勤勉な労働と熱心な蓄財を日常的に繰り返すことを当然とみなす、そんな我々自身の生活の隠れた非合理に気付いたためである。「当たり前」「常識」を疑うということは、そもそもあらゆる学問の基本姿勢であるはずなのだが、我々は今、この基本姿勢をこそ取り戻さなければならない。

2、何が「宗教」と呼ばれるか?

 以上のような観点からは、いくつかの具体的なテーマが導かれる。

1. なぜ、特に「宗教」という括りで忌避が発生するのか?

2. 「宗教」と呼ばれるものと、呼ばれないものの違いは何か?

3. 我々が無意識に行なっている宗教的実践にはどんなものがあるか?

4. 宗教への意識は、我々の日常生活への批判的な意義を持つか?

ここでは特に「2.『宗教』と呼ばれるものと、呼ばれないものの違いは何か?」について取り上げたい。1990年代半ば以降の日本では、宗教という言葉が明らかに本来の辞書的な意味とは異なった意味で使われており、その「ズレ方」を探れば、今日の我々の社会が無意識に抱えた不安や恐れに迫ることができると考えられるためだ。

 上記のような関心を持って、「何が『宗教』と呼ばれるか」と考えた時、最初に思いつくキーワードは「非日常性」である。我々の日常生活に根付いて身近なものとなった「神道」「仏教」「キリスト教(カトリック、プロテスタント)」の主な宗派は、「宗教」とは呼ばれないし、忌避の対象にもならない。それ以外の宗教・宗派、つまり我々にとって非日常的なものだけが、特別に「宗教」と呼ばれ、忌避と差別の対象になるのだ。

 そして、次に見出されるキーワードは「他者性」である。これは、特定の宗教が社会に対して対抗的であるとか、信徒が非信徒に対して排他的であるというようなことを意味しない。社会の多数派、とりわけ、ニュース・ワイドショーの視聴者や出演者が、「自分たちとは違うもの」に対して一方的に押し付ける「他者の記号」である。

 例えば、オウム事件と並んで当時の日本を騒がせた大事件として、「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」や「神戸連続児童殺傷事件」がある。これら3つの事件を受けて、世論の反応は、「オタクは怪しい」「宗教は危ない」「子どもが分からない」というものであった。ほとんどのオタク、大部分の宗教、大多数の子どもは、事件とは何の関係もない。にもかかわらず、「オタクだから」「宗教だから」「子どもだから」というふうに過度に一般化され、一括して忌避・差別・監視の対象となる。

 この3つの事件については「(無理な)一般化」からの「(不当な)忌避」という、共通した過程を見出すことができる。こうした過程が駆動するのは、きまって加害者が社会の多数派にとって「他者」と見なせる時である。「オタクは怪しい」「子どもは危ない」と言いながら、本当に守り抜きたかったのは、おそらく「(オタクでも子どもでもない)良識ある大人の自分たちは大丈夫」という信念ではなかったか。

 そして、ここで興味深いのは、宗教が「他者」の側に数えられているということ、つまり、社会の多数派は自分たちを基本的に「無宗教」と見なしているらしいということだ。

3、柄谷行人『倫理21』

 世間での受け止められ方に続いて、知識人たちによる論じられ方も見ていこう。まずは、柄谷行人『倫理21』(平凡社、2000年)である。題名や刊行年から分かるとおり、本書は21世紀に向けて20世紀を総決算するという意図を持って書かれている。20世紀末の日本における様々な出来事を下敷きにしつつも、その発端は「戦争責任」をめぐる考察であり、「責任」や「倫理」について何か本質的なことを言わねばならぬという使命感であったと、著者自身が本書の「はじめに」で述べている。

 本書は、カントによる「三批判書」の記述をベースに、概ね歯切れ良い記述が続くが、宗教を扱った「第6章 宗教は倫理的である限りにおいて肯定される」は随分と歯切れ悪い。著者は「道徳(共同体の内部でのみ通用する道徳)」と「倫理(時代や地域を超えて普遍的に通用する道徳)」を分け、「共同体の宗教」と「世界宗教」の区別を、そこに重ねる。つまり、「世界宗教」は「道徳(共同体の道徳)」を超えた「倫理(普遍の道徳)」を構想したという点で、評価に値するというのだ。こうした記述の問題点については、後に述べる。

4、吉本隆明・他『尊師麻原は我が弟子にあらず』

 次に、吉本隆明+プロジェクト猪『尊師麻原は我が弟子にあらず』(徳間書店、1995年)を取り上げる。刊行年から分かるとおり、本書はオウムによる一連の事件が発覚した直後に書かれている。なお、吉本自身は事件発覚前から修行者・思想家としての麻原彰晃を評価しており、本書でもその立場を変えることはなかった。そしてそのことは、マスコミや世論からの激しい非難を招くことになった。

 吉本はまず、事件の責任を問うことと、麻原の思想を評価することは、一応別のこととして区別する。その上で、オウムの教義と事件との関係を推察し、そこに「生と死の区別の希薄化」という要素を見出す。そしてそれを、浄土教を除いた日本仏教に共通の傾向であると指摘する。ここまでは、妥当な議論であると言えよう。

 しかし、吉本はさらに論を進め、オウム事件は時代の曲がり角で起きた事件であるから、市民社会の倫理を超えた、何か普遍的な倫理を考える必要があると説く。先の柄谷の論に通じる部分もあるが、刊行年は吉本の方が5年ほど先である。

5、受け止められ方、論じられ方

 以上のように、市民社会における宗教の受け止められ方と、知識人による論じられ方を見てきた。市民社会は、宗教を「非日常性」と「他者性」という括りの中に囲い込み、自分たちの日常性という秩序を守り抜こうとした。実は、その日常こそ無意識の宗教的実践に満ちているというのに、それには気付いていないか、もしくは気付かないフリをして安定化を図ろうとするものだろう。

 他方、柄谷や吉本といった知識人は、特定の時代や地域に限定された道徳を超えて、何か「普遍的な倫理」を呼び出そうとした。もっとも、個別具体の事例の特殊性を超えて、上から「あれは良い」「これはダメ」と、文句なしに決めつけられるような基準があれば、何も苦労はしないのだろうが。

6、そして役割

 宗教を「非日常性」「他者性」の中に囲い込む市民社会の対応は、明らかに現実から目を逸らしている。時代・地域の差異を超えた「普遍的な倫理」を求める知識人の声も、明らかに現実の暗さ・深さに届いていない。となれば、そこで求められる宗教の役割は何か。

 おそらく、柄谷のように「(共同体内の特殊な)道徳」と「(全世界に共通普遍の)倫理」を分ける必要はない。「道徳」であれ、「倫理」であれ、どうしてもそれに従えない、それに反してしまう人は存在するし、誰にでも、それらに反してしまう瞬間が存在する。であれば、どうしようもなく「道徳」「倫理」に反してしまうという事実、それを受け入れる場所としての役割こそ、宗教が担うべきものであり、また担ってきたはずのものではなかったか。

 世界宗教であるキリスト教の最大会派たるローマ・カトリック教会にも、「告解」という儀式があり、信徒は「道徳」「倫理」に反した行為を告白し、宗教はそれを受け止めて許すことを続けている。柄谷と吉本が共通して評価する親鸞の「悪人正機説」では、「罪を犯してしまったのは本人が悪いからではなく、罪を犯さずに済んでいるのは本人が良いからではない」ということが説かれる。こうして見た時、宗教が果たすべき役割は、「道徳」「倫理」に従ったり、それらに従うことを信徒に求めたりすることよりは、従えなかった弱者や悪人をも受け入れること、むしろそれこそが、時代・地域を超えた宗教普遍の役割ではなかったか。

 世界宗教といえども、もとは共同体の道徳に馴染めなかった人々の始めたもので、当初の教団には暴力的・差別的な側面もあった。それが災いをもたらすか、幸福をもたらすかは、親鸞の説を引くものではないが、割と偶然によるのではあるまいか。

 以上のことを踏まえて、我々が宗教と向き合う際に必要なのは、

1. 我々が宗教を避けられないという認識

2. 人間の社会・文化に関する全てが多かれ少なかれ宗教であるという認識

3. 宗教は安全でも危険でもなく、安全にも危険にもなりうるという認識この3つであると結論づけ、論を終えることとする。


参考文献

柄谷行人 (2000) 『倫理21』平凡社.

Weber, Max (1920) "Die protestantische Ethik und der »Geist« des Kapitalismus", Gesammelte

Aufsätze zur Religionssoziologie, Bd. 1, SS. 17-206, Tübingen: J.C.B. Mohr. = (1989) 大塚久雄(訳)

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫.

吉本隆明+プロジェクト猪 (1995) 『尊師麻原は我が弟子にあらず』徳間書店.

現代研究会

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