2020年度前期発表6【宗教と思想のあいだ】 ~ヒンドゥ教の食の規律にみる思想と信念~ ベジタリアンになる人々、なった人々
現代研究会 2020年6月27日
【宗教と思想のあいだ】
~ヒンドゥ教の食の規律にみる思想と信念~
ベジタリアンになる人々、なった人々
平 明子
宗教上の戒律あるいはその教えに従って、食に対する規律を有する宗教がある。イスラム教におけるハラールフード、仏教の教えである不殺生に基づく精進料理、同じくヒンドゥ教に見られる菜食主義などをその例としてあげることができる。
ひとことに『菜食主義』、『肉や魚は食べない』と言っても、肉や魚に加えて、卵も食べない人々、卵と牛乳(乳製品)も食べない人々、卵、牛乳(乳製品)さらに蜂蜜など動物に由来するものはすべて食べないという人々、卵、乳製品、五葷(ごくん)を食べない人々(素食スーシー)といった具合に、その程度はいろいろである。ヒンドゥ教徒の菜食主義者は比較的牛乳と乳製品は摂取すると言われている。また、菜食主義を選択する理由も実は様々である。ここで「人はどのような理由で菜食主義になるのか」という点を以下のように考えてみた。
a. 宗教上の規律 - 信仰あり - 社会的・環境的要因
b. 時代的・経済的状況 - 信仰等なし - 社会的・環境的要因
c. 動物愛護の精神等 - 思想・信念 - 個人
d. 宗教のようなもの - 信仰・思想・信念 - 個人
菜食主義になる理由としてまず宗教上の規律をあげることができる。これは信仰に基づく行いで、地域一体の住民が同じ宗教や宗派に属している場合においては、社会的・環境的要因であるとも言える。また、時代的・経済的状況により菜食中心の食生活を余儀なくされる場合もある。この場合、その選択に信仰や信念は存在しないと言えるが、宗教上の規律を理由に菜食を選択する人々と同じく、社会的・環境的要因が存在すると言ってよいだろう。近年増加傾向にある動物愛護や環境保護精神、健康志向(闘病含む)に基づいて菜食主義となる人々もいる。このグループに属する人は、個人の思想や信念に基づいて実践しているのである。しかし、今回ここで注目したいのは「個人の信仰・思想・信念」に基づいて菜食主義を選択する人々の存在である。これをここでは「宗教のようなもの」と呼ぶこととしたい。
食に対する規律を持つ思想と実践の例の一つとしてマクロビオティックを取り上げてみたい。マクロビオティックは桜沢如一(1893-1966)により、1928年から始められたものである。以下、マクロビオティックの特徴を Wikipedia より引用する。玄米・全粒粉(小麦粉)を主食とし、豆類・野菜・海藻類・塩を食べる。肉、魚、卵、乳製品、砂糖は摂取しない。コーヒーも避ける。有機農産物、自然農法・天然由来の食材、地元の食材を選ぶ、鰹節、煮干しなどの魚の出汁は避け、昆布、しいたけの出汁を使う、皮や根も捨てずに、1つの食品は丸ごと摂取する、アクも取り除かない。ただし、卵については病気回復を目的に限定的に摂取することは可能。厳格でない人は白身魚、小魚は少量なら摂取可能とする場合もある。
マクロビオティックが始められた1928年の時代的背景を考慮すると、その時期は第一次世界大戦(1914-1918)、第二次世界大戦(1939-1945)と大きな戦争が続いた時代であった。戦中、戦後の食糧難の時期と重なっており、肉・魚・卵・砂糖は高級品であり日常で手に入りにくい食材であったと言える。マクロビオティックとはある種の思想あるいは指導的内容であって、強い制約であったわけではなかった点は、卵や小魚の摂取については選択的であったことからわかる。つまり、桜沢によるマクロビオティックの穀物菜食の思想と実践は、当時の食事上を体系的に肯定する思想であったといえるのではないだろうか。
現代でもマクロビオティックを実践する人々がいる。その目的は主に、ダイエット(健康のため)、動物愛護、環境保護、砂糖を摂取しないことで歯に良いということから一部の母親から指示されているという例など、あくまでも個人の思想や信念をもとにある目的を持って実践しているのである。マクロビオティックに関しては、上記分類における 時代的・経済的事情から普及した思想(b)が現代において美容・健康等を目的とする個人の信念の実践(c) に移行したと言える。
ヒンドゥ教徒はその宗教的教えに基づいて、基本的に菜食主義である。そして主にインド国内のヒンドゥ教徒は、身分やしきたりによって菜食の程度が異なるという点が指摘できる。鶏卵の摂取についてはそれぞれであり、一般的に牛乳や乳製品はよく食べる。これはインド料理にチーズが多く使われていることや、ラッシーなどヨーグルトドリンクのような飲み物があることからもよくわかる。しかし一方で、輪廻の概念から菜食主義を徹底する人々も存在する。特に上位のカーストに属する人の中には玉葱など一部の根菜も食べない人々がいる。それらを収穫する際、土の中の微生物を殺してしまうことが不殺生の教えに反するということが避ける理由である。
思想や信念に基づく行いとして菜食主義を実践する人々も多くいる。これは個人の信じるところによるので、その程度は様々である。信念に基づいて完全菜食主義を選択し、食べ物のみならず、革製品を使用しない等、身に着けるもの、日常生活で使用する品々にも制約を設けている人もいる。
2020年、ヒンドゥ教徒の人口は世界で11憶人以上であり、そのうち約10憶人はインド国内に住んでいるという統計がある。実際、日本国内にいるとヒンドゥ教徒に接する機会はそう多くない。ヒンドゥ教という言葉から連想するのは、ガンジス川で沐浴する人々の姿、シヴァ神、ヴィシュヌ神の像、額にビンティを付けた女性の姿などであって、我々に身近な存在とは言い難く、広く理解できているとも言い難い。しかし、一つだけ身近といえるものがある。それはヨガである。日本には本当に多くのヨガ教室が存在している。スポーツジムでも気軽にヨガクラスに参加できるし、書店の棚には多くの関連書籍がならんでいる。
ヨガとは、古代インドに発祥したヒンドゥ教と仏教の修行法である。しかし日本ではヨガを修行法と考えてヨガをやっている人はほとんどいないと言えるのではないだろうか。多くは健康志向、美容目的で教室に行っている。「会社帰りにヨガ教室に寄るんです」と言うだけで、何かおしゃれなイメージ、ポジティブなイメージがついてくる。しかしヨガはここ最近の流行ではなく、山下博司氏(2009)の『ヨーガの思想』によると、1970年代にはすでにヨガは世界に広まり始め、1990年代にはセレブと呼ばれる人々の間で人気となり、現在のヨガブームといえる状況はそれが一般にも普及した結果である。
ヨガが「ヒンドゥ教的な」世界に入り、「ややヒンドゥ教徒的な生活」を始めるきっかけとなる場合がある。ヨガの教えは、単なる健康を目的とする運動を超え、生活スタイルや食事、あるいは思考にも影響を及ぼす。
ヒンドゥ教徒が多いコミュニティにおいてヒンドゥ教的菜食主義を実践することは難しくないが、その外では困難を伴う。東京を中心にベジタリアン対応のレストランも増えてきてはいるがまだ多いとは言えない。いわゆる和食は菜食中心であるが「かつお出汁」という見えない動物由来の食材が存在するゆえ、外食は思いのほか難しい。一般に販売されている加工品やレトルト食品にも動物性のものを含む商品が多い。従って、厳密に菜食主義を実践するためには、かなりの注意を要することになる。その程度が高くなれば、野菜を自家栽培したり、例えばカレーやシチューを作るにも原材料からオリジナルで調理したりすることになる。
このように日々の生活に困難を伴う環境においても、あえてその思想や信念を貫く理由は何であろうか。もちろん自身の健康や美容の目的もあるだろうが、そこにはヨガとその教えによる菜食主義を実践するという点において志を同じくする人との輪があり、また困難な状況にあえて挑むことによる自己肯定があるのではないかと感じた。
科学技術の発達によって情報や教育へのアクセスが容易になった結果、我々は教会や寺院からの教えに頼らずとも自分で調べたり考えたりできるようになった。しかし、それでもやはり何かに救いを求める気持ちが大なり小なりあるのかもしれない。改宗したとか、信者としての行いなどという視点ではなく、またあるすでに体系化した思想や主義を選択するのでもないのだが、ある宗教の教えに基づく行いや思想の「一部」を自身の信念として実践することで、何かを心の拠り所にすること、また何かを貫くことによって得られる心の安定があるのかもしれない。そしてその心の拠り所となる何かを、本日冒頭で述べた「宗教のようなもの」と考えてみた。国際化が進むにつれて多様性が求められる中で、宗教への理解はもちろんのこと、「宗教のようなもの」を信念とする行いへの理解を含む『食』に関する理解と、環境の整備が求められると感じた。
参考文献
Hugh P. Kemp 著 大和昌平(監訳)『世界の宗教ガイドブック 「神」を求めた人類の記録』 いのちのことば社 2015
ドーリング・キンダースリー社(編)島薗進、中村圭志(日本語監修)豊島実和訳『宗教学大図鑑 The Religions Book』三省堂 2015
山下博司『ヨーガの思想』 講談社 2009
Wikipedia より マクロビオティック
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%93%E3%82%AA%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AF
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