後期テーマ:「地域創生」発表1⑦鳥栖市の地域創生

⑦鳥栖市の地域創生
最後に取り上げるのは佐賀県鳥栖市である。
2018年9月初旬、筆者は墓参りのついでに鳥栖市役所を訪れた。初めて見る市役所は古い建物で、お世辞にも美しいとは言えなかった。しかしその中身は外見とはまったく異なるものであった。予約なしの訪問であったので門前払いもありうると覚悟していた。だが幸運にも、企画政策部総合政策課の鹿毛晃之課長及び田中大介係長に会うことができ、直に話を聞くことができた。両氏ともこころよく筆者の質問に答え、意見を聞いてくれた。外部との意見交換はいつでも歓迎するという。その態度からは、これまで行ってきたことへの自信のようなものが感じられた。あとで調べてみると、鳥栖市の地域創生はこの総合政策課によってイニシアティブがとられていることが分かった。

筆者は佐賀県の出身である。生まれ育ったのは神埼市(当時は神埼郡)千代田町である。佐賀市のすぐ東に位置し、子供の頃、都会と言えば佐賀市を意味した。一方、鳥栖市は佐賀県の東端、福岡県県境にあり、やや離れたところにあるため、これまでそれほどなじみのある町ではなかった。ここでこの都市を取り上げることになったのは、鳥栖市がここ何十年もの間人口減に悩む佐賀県において唯一人口が増え続けている自治体であることによる。

日本のすべての地域で人口が減り続けている現代において人口が増えている都市がある、しかもそれが佐賀県にあるという。帰郷するたびに佐賀市の凋落を目の当たりに見ていた筆者は、最初は信じられなかった。だが調べてみると事実であった。1954年の市制施行時に40,176人であった人口は、2018年10月1日には推計で74,137人になっている。しかもこの間、一度も減少することなく、着実に増え続けているのだ。何故だろう?そう思ったのが最初のきっかけである。

増田レポートを読むと、鳥栖市は地域創生に成功した産業誘致型の自治体の一つとして紹介されている。だがいかにしてそうなったのか?以下、鳥栖市の地域創生をスケッチし、その成功の理由、また未来の展望を少し考察してみたい。

残念ながら鳥栖市の地域創生を取り上げた研究書の類はない。そこでここでは鳥栖市が発刊した「鳥栖市人口ビジョン」(2015年9月)、「Your New Hometown Tosu City!」、「“鳥栖発”創生総合戦略」(2015年8月)、その他の雑多な資料を参照する。また市役所訪問で得られた情報を参考にする。

鳥栖市は面積71.72km2、人口74,137人(2018年10月1日推計)の自治体である。佐賀県でも自治体としてそれほど大きな規模ではない。だが北部九州の交通の要所に位置し、ここで九州新幹線・鹿児島本線と長崎本線が交差する。また九州縦貫自動車道と九州横断自動車道(長崎大分線)が交差する。文字通り九州の心臓部に位置する。また南の境を九州最大の河川、筑後川が流れ、その周辺は水田地帯である。この地域は非常に古い歴史を持っていて、多くの古代遺跡が見つかっている。古くから鳥の飼育(養鶏?)が盛んだったようで、大和政権時代には、鳥を天皇に献上していたことから「鳥の巣」と呼ばれ、これが後に「鳥栖」に転化したらしい。江戸時代には対馬府中藩の飛び地「田代領」となり、長崎街道田代宿の宿場町として栄えた。やがて朝鮮から輸入した原料を基に、農民の副業として薬の製造が行なわれるようになる。田代売薬は江戸末期には日本四大売薬の一つとなった。現在もある久光製薬はこの頃に創業し、明治以降の製薬業の発展の礎石となった。鳥栖はまた交通の要所であるため、九州で最初の鉄道網が建設されたところであり、終戦直後は「鉄道の町」と呼ばれた。

ここで「鳥栖市人口ビジョン」その他資料を頼りに、戦後における鳥栖市の地域創生の歴史を要約してみよう。鳥栖市の人口は1920年に国勢調査が始まって以来継続して増加してきた。だが飛躍的に増加するのは戦後の高度経済成長期においてである。より正確に言えば、1960年代初めまでは、転出者数が転入者数を上回っていた。この時代は日本が奇跡の経済復興を遂げた時期であり、日本全体で地方から大都市への大規模な人口移動があった。よりよい機会を求めて鳥栖市からも若い労働人口が大都市圏に流れたのである。

だが鳥栖市はそれをただ見ていたのではない。すでに1954年の市政発足とともに企業誘致を始めている。最初の誘致企業に旧日本エタニットパイプ(株)鳥栖工場(1958年)、旧オリエンタルコンクリート(株)鳥栖工場(1958年)、旧大和ハウス工業(株)鳥栖工場(1961年)等がある。だが企業誘致が本格化するのは1960年代になってからである。

1963年に46.2ヘクタールの面積を持つ轟木工業団地が造成され、それから数年間に、九州セキスイハイム工業、コカ・コーラウエストプロダクツ、ブリヂストン、レンゴー、フランスベッド等、多くの企業が自社工場、事業所を建設した。団地の建設は大規模な雇用を生み出し、その結果、反対に転入者数が転出者数を上回ることになる。産業団地の建設はその後も続く。1978年には鳥栖商工団地(51.6ヘクタール)が、1988年には鳥栖西部工業団地(24.9ヘクタール)が、1998年には鳥栖北部丘陵新都市(49.8ヘクタール)が、また2006年にはグリーン・ロジスティクス・パーク鳥栖(46.1ヘクタール)が整備される。産業団地の造成は現在でも続いている。分譲中のものに鳥栖西部第二工業用地(18ヘクタール)があり、また新産業集積エリア(28ヘクタール)の整備が進行し、さらには100ヘクタールの巨大団地の整備が計画されている。

人口動態に関して言えば、高度経済成長期後も人口は堅実に伸びて行く。その後、1980年代後半のバブル経済期において、高度経済成長期初期と同様の現象が起き、一時期転出者数が転入者数を上回る。これは前回と同じく、全国的な規模で人口の大移動が起きたためである。しかしわずかな期間でバブルは崩壊し、人口は再び転入超過に戻る。鳥栖市が傾注した企業誘致、産業インフラ整備の効力が復活したのである。その後、鳥栖市の人口は順調に増えて2012年には7万人に達し、現在に至っている。
以上でわかるように、鳥栖市の人口増加は、徹底した産業の振興によるものである。鳥栖市は1954年の市制施行以来、これまで一貫して産業誘致政策をとってきた。この方針は現在でも不動である。「“鳥栖発”創生総合戦略」(2015年8月)にこうある。
基本目標1 鳥栖市における安定した雇用を創出する(雇用創出数を増やす、進出企業数を増やす)

この目的のために市として最大限の支援を行う。いわゆる産業立市である。したがって鳥栖市の人口増加の原因はまずこの政策の実施に求められるだろう。九州の心臓部、交通の要所に位置し、様々な点で立地条件は揃っていた。鳥栖市は未来を見据え、先見の明を持ってこれに対処し、1960年代から現在まで継続して産業団地の整備を行ってきた。その結果、あたかもこれに応えるかのように次々に企業、それも大企業がこの地に進出してきた。現在では多くの大企業・中堅企業の事業所や営業所が存在する。また鳥栖に本社を持つ大企業も存在する。さらには九州における一大物流センターとして栄えている。人口10万人以下の規模の都市でこれほど堅牢な産業基盤を持つ自治体も稀であろう。

こうした企業体の存在はこれまで多くの雇用を生み出してきた。雇用の創出は地域創生の大きな要である。あらゆる意味で人間は仕事なしでは生きて行けない。生きる糧を生み出すため、たとえ自給自足の社会においても、仕事は必要である。雇用は現代社会における一般的な仕事の在り方である。しかし雇用を生み出すだけでは人口は増えない。通勤圏内の別な、よりよい場所に住むこともできるからである。しかし実際に鳥栖市の人口は増え続けている。市への転入者、つまり移住者が増えているのだ。その理由は何だろうか?

いくつかの理由があると思われる。第一の、最大の理由は明らかである。すでに述べたように多くの企業が集中する産業立市のこの都市には多くの(魅力ある)雇用機会が存在する。

二番目は住みやすさ、また子育て環境のよさである。多くの企業が集中しているため、鳥栖市の財源は豊かで、当然、行政サービス、福利厚生は優れたものであると推測できる。鳥栖市への転入者は若いカップルが多いという。これらの人々がここに永住して家族を構成するには、当然のことながら、よい子育て環境が不可欠である。子育てのサポートとい言う点で、鳥栖市は日本でも有数の自治体であるという。(これは「“鳥栖発”創生総合戦略」(2015年8月)の基本目標3でもある。)例えば、小学校就学前児童の通院費の助成、保育料の低額設定(三人目は無料)等である。またすでに1996年(平成8年)に最初の「子育て支援センター」を設置している。現在では10か所に存在するが、これは比率的に全国平均の倍以上であるという。

三番目は活気ある街から生み出される、魅力ある消費文化、若者文化の存在であろう。その象徴がJR鳥栖駅前の商店街であり、サガン鳥栖のベストアメニティスタジアムであり、鳥栖プレミアム・アウトレットである。
そして四番目として、地方に特有の排他性の希薄さが挙げられるかもしれない。鳥栖市は大都市ではないが、人口動態が流動的であり、そのため地域性、排他性が弱く、風土的に大都市に近いようである。つまりよそものに対して寛容であるということである。

最後に、鳥栖市の持つもう一つの顔、福岡市のベッドタウンとしての機能がある。福岡市は九州北部の大都市である。鳥栖市から福岡市まで急行で30分程度であり、完全に通勤圏内である。多くの人々が、便利で、より地価の安い鳥栖に居住し、通勤しているという。

さて、以上の項目は主に人口の社会増を生み出す要因である。真の地域の地力である自然増についてはどうだろう。鳥栖市の合計特殊出生率の推移は日本の他の地域とそれほど変わらない。1983年~1987年に1.91であったが、その後緩やかに下降し、2003年~2009年には1.53の最低値を記録する。鳥栖市への移住者は二十代、三十代が圧倒的に多いようだが、人々の意識が大都市と変わらなくなったということだろうか。しかし出生率はそれ以降は回復する傾向にあり、2010年~2014年には1.64に上昇している。これは全国平均の1.38を上回るが、地方においてはそれほど高い数値ではない。周知のように人口の維持には2.07の出生率(人口置換水準)を必要とする。したがって現在の値をこれからどれだけ改善できるのかが大きな課題であろう。

最後に疑問点、わからない点である。
鳥栖市の野心的とも言える産業誘致政策は、ある意味で、田中角栄首相が主導した「日本列島改造論」(1972年)を思わせる。周知のように、この構想は日本の経済を繁栄させたが、同時にまた国土の荒廃をもたらした。その点、鳥栖市における幾多の巨大産業団地の創出はどうなのであろうか。それほど大きくない面積の自治体をこれほどまでに産業化した場合、それによって引き起こされる環境問題はいかに対処されているのであろうか。居住環境のよさについてはすでに説明した通りである。だとすればすでに十分な環境対策がとられているのであろうか。残念ながら、この点に関して、筆者は具体的な情報・資料を参照することが出来なかった。
鳥栖市の地域創生を調べてみて何が言えるのか。

鳥栖市は大成功を収めた地域創生の例である。この都市は強い意思とエネルギーを持っていて、これからも栄え、21世紀において九州北部の要所であり続けることであろう。増田レポートによれば、2040年における鳥栖市の予想人口は77,944人、若年女性人口変化率は-2.4%である。この変化率は、佐賀県においては、第二位吉野ヶ里町の-24.9%、佐賀市の-41.0%のはるか上方にある。
だが筆者は、そうだからこそ、あえてこの自治体により高いレベルの課題を期待したい。

期待したい課題は二つあり、一つはダム機能を持つ広域地域ブロックの構築、もう一つは文化の創造である。
鳥栖市の総合政策課の担当者と話した時、鳥栖市はこれからも産業誘致を継続したいが、用地的に余裕がなくなってきていることを知った。つまりこのままでは、単体として行う限り、未来の発展は限られているのである。したがって更なる発展のためには合併を含む近隣の自治体との協力関係が不可欠になる。また別な視点からすると、鳥栖市の繁栄は鳥栖市だけで完結しているわけではなく、久留米市とか福岡市等の地域の中核都市との関係によってはじめて成り立っている。このことは極めて重要な事実である。地域創生はややもすればどこかの自治体(だけ)が活性化する独立活動として見られる。しかしこれは間違いである。一自治体の発展が他の自治体の衰退の上に成り立つことはできない。長期にわたる繁栄は周囲の自治体との共生によってのみ可能となる。ここで増田レポートが言う広域地方ブロックの構築を思い出してみよう。日本の未来を救うためには東京への一極集中を防がねばならないが、そのためには各地の元気のある町が中心となって広域経済圏を形成しなければならない。鳥栖市にはそのイニシアティブをとる余力とエネルギーがあると信じたい。

文化の創造とはどういうことか。臼杵市の地域創生でも少し述べたが、地域創生の最後の拠りどころは文化である。すでに十分な伝統文化が存在すれば、それは全力で維持すべきである。不十分であれば新しく創り出す必要がある。何故なら文化とは精神の糧であるからだ。産業誘致は雇用を創り出し、人間を経済的に物質的に地域に繋ぎ止める。だが人間はロボットではない。より高い、精神的充足を求めて生きている。その充足に必要なもの、それが文化である。鳥栖市には「とす弥生まつり」、「鳥栖山笠」等、伝統的な祭りがある。また「土曜夜市」、「九州まん祭」等、町興し的な催事もある。古い歴史を持つ地域で、この種の祭りはいくらでも発掘が可能であろう。加えて現代のサッカー文化、イルミネーション文化、若者文化も根付きつつある。だがこれらはやはり表層的な文化創生である。これからの日本、地域にとって必要なものは見えない文化の創生ではないだろうか。この点で鳥栖市が構想している「日本語教育基本計画」は興味深い。鳥栖で生まれ育つ人々が、郷土を愛し、日本を愛することができるように、小・中一貫の日本語教育を実施するという。カリキュラムは言葉の学習に留まらず、言語文化・歴史にも及ぶ。すばらしいことだと考える。さらにはここに外国語教育も付け加えてもらいたい。これからの日本は、好むと好まざるを問わず、異文化の人々との遭遇が不可避と思われるからだ。

鳥栖市は『魏志倭人伝』にも登場する古代からのコミュニティである。そうした思いを馳せながらこの項を閉じたいと思う。

参考資料:
「鳥栖市人口ビジョン」 鳥栖市総合政策課 2015年9月
https://www.city.tosu.lg.jp/Material/41771.pdf
「Your New Hometown Tosu City!」 鳥栖市企画政策部 総合政策課
「“鳥栖発”創生総合戦略」 鳥栖市 2015年8月
https://www.city.tosu.lg.jp/Material/33867.pdf
鳥栖市企業立地ガイド 鳥栖市公式ホームページ
https://www.city.tosu.lg.jp/1039.htm
鳥栖市への誘致企業の進出と活動―昭和30年代の動向を中心に―(報告要旨) 山本長次 「佐賀学」創成プロジェクト第一回公開講演会 於、佐賀大学 2008年7月11日
http://www.chiikigaku.saga-u.ac.jp/homepage2/rekishisanpo_yamamotosensei.html
鳥栖市、100ヘクタール団地構想―産業と住宅、受け皿確保 「佐賀新聞LIVE」 2018年6月13日
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/229686
新春特集 楽しい子育て応援します~鳥栖の子育て支援~ 「鳥栖市 市報」 2009年1月1日
https://www.city.tosu.lg.jp/siho/siho_1091/siho1109.pdf
[鳥栖de子育て]子育て支援センターってどんなとこ?
https://tosu-plus.com/parenting-in-tosu1
鳥栖市日本語教育基本計画 鳥栖市教育委員会 2015年2月
https://www.city.tosu.lg.jp/Material/28005.pdf
鳥栖市 ウイキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E6%A0%96%E5%B8%82
長崎街道旧田代宿(佐賀県鳥栖市) 朝日新聞デジタル 2018年7月20日
http://www.asahi.com/area/yamaguchi/articles/MTW20180831360650001.html
小林由明 『佐賀の逆襲―かくも誇らしき地元愛』 言視舎 2013年
「鳥栖の魅力を伝える」鳥栖市プロモーションビデオ 新しい流れ(YouTube)
https://www.youtube.com/watch?v=76QLiGyCBcE
ワタシが日本に住む理由 “佐賀県鳥栖市で暮らすフランス人奥様”(YouTube)
https://www.youtube.com/watch?v=DOKQ1xkpg2I

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佐賀大学地域学歴史文化研究センター:佐賀の歴史散歩~「鳥栖市への誘致企業の進出と活動-昭和30年代の動向を中心に-」山本長次

「佐賀学」創成プロジェクト第1回公開研究会  於、佐賀大学  平成20年7月11日「鳥栖市への誘致企業の進出と活動-昭和30年代の動向を中心に-」 佐賀大学経済学部准教授 山本 長次  報告要旨 本報告は、昭和29年に市政を発足した佐賀県鳥栖市における、第1号から第3号までの誘致企業の進出の経緯と、その後の活動についての考察である。当時の市長は、故・海口守三氏(1901-2003、在職は昭和29~40年)で、鳥栖市は佐賀県についで、県内の市町村として、最初の企業誘致関係の条例を市政発足時に制定し、精力的に企業誘致に取り組んだ。鳥栖市は九州における交通の要衝であるが、そのような利点と精力的な施策等により、市政発足時からの誘致企業数は、平成20年6月現在において159を数え、製造品出荷額についても県内で1位となっている。今日においても、鳥栖市に限らず、佐賀県全体として、企業誘致については課題となっていることから、誘致の過程、その後の企業活動、そして撤退の要因等を分析していくことを通じて、大きな示唆が得られると思われる。そして、このような検討結果から、「佐賀学」の一分野として、佐賀地域ならではの特色を見い出していくことも、プロジェクト内における目的となる。さて、鳥栖市における誘致企業の第1号となったのは、旧日本エタニットパイプ(株)鳥栖工場(昭和33年2月操業開始)であった。この企業については、昭和6年に設立され、東証1部に上場していた大手企業で、主に水道に用いられる石綿(アスベスト)セメント管を製造した。ここでは、当社の進出の経緯とともに、市の関係職員や市長にも責任の追及が及んだ関連会社による贈収賄問題(昭和44年)、アスベストの使用制限にともなう昭和61年1月からの工場の別会社化と閉鎖、そして今日におけるアスベストにまつわる健康被害問題や投棄の問題などについて言及した。続いて、第2号となったのは、旧オリエンタルコンクリート(株)鳥栖工場(昭和33年10月操業開始)で、この企業の事例についても、進出の経緯について触れるとともに、先の日本エタニットパイプとともに、誘致条例にもとづく奨励金の交付額(固定資産税の額を限度として3年間)と税収の関係についての分析をおこなった。そして、第3号となったのは、旧大和ハウス工業(株)九州工場(昭和36年4月操業開始)で、候補地の絞込みと

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