2022年度後期現代研究会発表3 仏教における覚りと慈悲

2022年度後期現代研究会発表3

仏教における覚りと慈悲

2022年12月17日

平林二郎

 大乗仏教の最終的な目的は仏(ブッダ)になることである.

 初期仏教・上座部仏教などでは覚りを得て修行者の最高位である阿羅漢にはなれるが,釈尊などの過去七仏と同様の仏にはなることができないとされている.一方で大乗仏教では,仏となるための方法が大乗経典に説かれており,慈悲や六波羅蜜などを実践すれば釈尊と同様に仏になることができるとされる.

 覚りと慈悲は仏教について考える際のキーワードの1つであるが,その説かれた方は時代によって変化し,理解が難しい箇所や,研究の進んでいない箇所もみられる.そこで本発表では大乗仏教と初期仏教で説かれる覚りと慈悲の内容について概説した.

・大乗仏教における覚り

 大乗仏教では仏教の出家修行者(声聞)は苦諦(この世は苦であるということ),集諦(苦をもたらすものがあるということ),滅諦(苦を滅することができるということ),道諦(苦を滅する方法があるということ)の四聖諦によって覚ると考えられている.

 次に,独覚(ひとりで覚る者)は無明,行,識,名色,六処,触,受,愛,取,有,生,老死の十二縁起(十二因縁)によって覚ると考えられている.

 そして,大乗仏教の修行者である菩薩は①布施波羅蜜,②自戒波羅蜜,③忍辱波羅蜜,④精進波羅蜜,⑤禅定波羅蜜,⑥般若波羅蜜によって覚ると考えられている.これらのうち①布施波羅蜜と③忍辱波羅蜜は他者のための実践である利他と考えられ,②自戒波羅蜜,④精進波羅蜜,⑤禅定波羅蜜は自分のための実践である自利であると考えられる.これら①〜⑤を実践することで智慧が完成することが⑥般若波羅蜜であると考えられている.

 覚りの内容として大乗仏教では空の理解が説かれるが,大乗仏教では自分と他者にこだわりをもたないこと,すべてを空であると見抜くのが空の理解の1つであるとされる.

・大乗仏教における慈悲

 慈悲とは「慈」と「悲」の複合語である.「慈」はサンスクリットのmitra-(友)から派生したmaitrī-(友情)を「慈」と漢訳したものであり,すべての人に友のように接することが「慈」である考えられている.

 次に「悲」はサンスクリットの動詞√kṝ(傷つける)から派生したと考えられ,傷つける呻きから,karuṇā-(苦しみをともにすること)となり,「悲」と漢訳されたと考えるのが一般的である.

 大乗仏教ではすべてのものに慈悲をふり向ける大慈悲が説かれている.その例としては,阿弥陀仏となる法蔵菩薩はすべての人々が往生しなければ仏にはならないと願を立てている.

・大乗仏教における覚りと慈悲

 大乗仏教の代表的な覚りの内容の1つを空と考えれば,慈悲と空について中村元は「慈悲と空とは,実質的に同じものである.哲学面から見ると空であるが,実践面からいうと慈悲になる」(中村元編『空(上)』仏教思想6,平楽寺書店,1981,p. 65)と論じている.この論述を踏まえれば慈悲は空と同様に大乗仏教において重要なものであると考えられているといえる.

・初期仏教における覚り

 初期仏教経典において釈尊は弟子たちに四聖諦を説いており,初期仏教において仏弟子は四聖諦によって覚りを得ると考えられる.しかしながら,初期仏教経典のなかで空を説いている箇所は少ない.

 最古の仏教経典と考えられている『スッタ・ニパータ』(Sn)には以下の箇所しか空が説かれていない.

"suññato lokaṃ avekkhassu Mogharāja sadā sato

attānudiṭṭhiṃ ūhacca, evaṃ maccutaro siyā:

evaṃ lokaṃ avekkhantaṃ maccurājā na passatī" ti (Sn 1119)

「モーガラージャよ,世間を空であると観察しなさい.常に気をつけ,

自我に執する見解を断って.そのようにすれば死を乗り越えられるだろう.

そのように世間を観察する者を死の王は見ない」と.

 また古い時代の仏教の教えを伝えているとされる『ダンマパダ』にも空という語は3回しか使用されていない.使用回数だけを見れば「空」を説いている箇所はわずかであることから,初期仏教の時代は大乗仏教ほどには空を重要視していなかっただろうと思われる.

・初期仏教における慈悲

 初期仏教経典を見るとkaruṇā-(悲)の語だけであれば用例は多数みられるが,mettākaruṇā-(慈悲)という複合語になるとその用例は限られている.経蔵部分を見るとmettākaruṇā-が使用されているのはDīgha-Nikāyaにおける以下の部分だけである.

Dīgha-Nikāya (PTS II p. 259)

āpo ca devā paṭhavī ca tejo vāyo tadāgamuṃ

varuṇā vāruṇā devā somo ca yasasā saha.

mettākaruṇākāyikā āguṃ devā yasassino.

片山一良訳(『長部(ディーガニカーヤ)大篇 II』パーリ仏典第二期4 p. 156)

慈身・悲身の神々は

名声をそなえてやってきた

これら十種の十身は

すべて種々の色をそなえたり

この部分について註釈者は以下のように述べている.

Sumaṅgala-Vilāsinī (Dīgha-Nikāya-aṭṭhakathā: Buddhaghosa's Commentary PTS II p. 690)

Mettākaruṇākāyikāti mettājhāne ca karuṇājhāne ca parikammaṃ katvā nibbattadevā.

試訳:Mettākaruṇākāyikā(慈身・悲身の神々)とは慈の禅定と悲の禅定の準備定をおこなって生まれている神々(諸天)である.

 上記の註釈をみると神々には慈の禅定と悲の禅定の両禅定をして生まれてくるものがいると考えられていたとわかるが,それが覚りに繋がるかは不明である.

 初期仏教における慈悲については用例が限られており,釈尊や古い経典編集者は慈悲にはそれほど深い顧慮を払っていなかったのではないかと考えている研究者も存在する.今後さらに研究を進める必要はあるが,慈悲についても大乗仏教の時代ほどは重要視していなかっただろうと推測していることを述べた.

現代研究会

「文化と社会に関する様々なテーマ、諸問題を取り上げ、過去から未来への歴史的視野で考察し、議論を行う」ことがこの研究会の目的です。