2021年度後期現代研究会発表4 国家神道の創造-神葬祭を巡って
2021年度後期現代研究会発表4
国家神道の創造-神葬祭を巡って
2021年9月25日
竹内和正
マッカーサーの神道指令* によって国家と神道が分離され、明治以降日本国民の統一性を保つべく進められてきた国家神道創造は終焉した。その国家神道の創造過程を辿ってみる。
明治維新の担い手たちは水戸学に拠っていた。外国船が沿岸を侵すような事態になって水戸学の会沢正志斎はこの国の統合を、記紀を頼りにした神道によって図ることが必要であると唱えた。
国民を仏教寺院に結び付ける檀家制度で支配していた江戸幕府を打倒した明治政府は、神道を国民教導の中心に置く。その過程において人々の葬儀も寺が執行するものから人々が神社に依頼するものに誘導しようとした。
そこで1868(慶応4)年の神仏判然令の後、まずは、江戸期には神官にしか認められていなかった神葬祭を同年(但し明治元年と改元)その家族にも認めた。
更に翌明治2年、江戸期には墓地が寺院有か共有であったために神葬の為の墓地用地がなかったので、神祇官が政府内で用地確保を伺い出る。これに対して青山霊園、雑司ヶ谷墓地などが設けられるのは1872(明治5)年であり、檀那寺の先祖墓地に神葬墓を設置することもこの年に認められた。
明治3年、惟神の道を宣揚するとの大教宣布の詔が出され、宣教使をもって天下に布教させるとした。
明治4年には戸籍令によって戸籍管理を寺の宗門人別帳から行政へと移す一方で、7月には氏子改め規則を制定して、人々を郷社とされた神社の氏子となるように義務付けた。
この間に巻き返した仏教、特に浄土真宗の働きかけがあって、政府は国民教導を神道だけではなく仏教も含めたもので行うことになり、明治5年には神祇省は教部省へと改められた。その役割として「三条の教則」を発し、敬神愛国、天道人道を明らかにし、皇上を奉戴する事を目的に国民を教化することとした。
さて、この年青山霊園が設置されたことは既に述べたが、神葬祭のやり方については、ここで初めて『葬祭略式』を定めることができた。
明治6年、今度は火葬を巡る問題が発生した。5月、内務省の警保寮から東京の火葬場での煙と臭いが住民の健康に悪いのでこれを人家のない所へ出しては、という伺い出が出される。これに対しての太政官庶務課の回答は火葬禁止令であった(明治6年7月18日太政官布告第253号「火葬の儀自今禁止条此旨布告候事」)。儒者蟹養斎は火葬を殺人と同じとまで言い切っていたが、これが反仏教側の火葬禁止要求の根拠の一つである。直後の「寺院墓地内に土葬の墓地を定めよ」という太政官達しに対し、大蔵省が都市計画上、また遺体尊重、公衆衛生上の観点から反対、太政官は達しを撤回、大蔵省に判断をゆだねることになった。
だが、土葬の墓地不足は変わらず、結局明治8年太政官布告第89号で「葬事の如きは人民の情を強いて抑制すべきものにあらず」と火葬解禁へと戻し、内務省は墓地の東京朱引き地外での設置、臭烟に注意等を定めた「火葬場取扱心得」を制定した。
明治8年、教部省は転宗改式について従来の宗派からの承認を得るべし、など定めようとしていたが結局教部省が廃止され、事務は内務省に移され、転宗の承認書も不要となった。
明治15年1月24日付内務省達丁第1号「自今神官は教導職の兼補を廃し葬儀に関係せざるものとす。此旨相達候事。但府県社以下の神官は当分従前の通り」が発せられる。これによって神官は府県社の神官と「国家神道の神社」の神官が分けられ、「神社」の神官は神葬祭を執行できなくなった。ここに宗教ではない国家神道が成立した。これは明治31年の内務省通達「教宗派の教師は神社に置いて布教をするを得ざる件」にある「神社を以て宗教に混同するの嫌いあり」の一文でも明らかである。
かくて、神葬祭は放置され、マッカーサーの神道指令後、自由に活動できるようになった筈の神社も未だに日本の葬儀の3%程しか担っていない。以上の経緯にみる混乱の為でもあるし、神社界が平安時代以降神社が重視してきた死穢忌避の結果でもあろう。
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* 「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(SCAPIN-448)
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