2021年度前期現代研究会発表7 日本人と宗教 ― 個人的体験より ―

2021年度前期現代研究会発表7

日本人と宗教 ― 個人的体験より ―

2021年5月29日

桑原真弓

日本人は宗教に関心がないと言われる。日本人は自身の信仰する宗教は何かと聞かれると、「無宗教である」と答えるかもしれない。が、それは決して「神」を否定しているわけではない。「強いて言えば、神道と仏教」と答える日本人も多いであろう。では、その仏教の宗派は何かと問われると、身内の葬儀に出席した経験でもなければ、答えに窮するというのも少なくない。

にも関わらず、宗教的儀式には熱心に参加する。大晦日から元旦にかけて、大勢の日本人が神社仏閣に初詣に押し掛ける。どんなに寒かろうが、混みあっていようが気にとめることなく、ひたすら列を成して向かう。が、そこに祀られているのが誰であるかはほとんど気にしない。そして、実はその1週間前にはクリスマスを(自分たちなりの方法で)盛大に祝っている。もちろん日本人の99パーセントはキリスト教信者ではない。

このような自分たちの無知と節操のなさを、他の宗教、特に一神教の信者たちと比べて、自覚して恥じてもいる。が、無理もない。神道には一神教のようにはっきりしたルーツがなく、あとから入ってきた仏教との境さえ曖昧にしてきた歴史もある。

では、一神教信者たちは皆、日本人が想像するように熱心に信仰しているのであろうか。

日本に住んでいた筆者の友人たち、キリスト教徒であるアメリカ人、イスラム教徒のパキスタン人の生活を思い返すに、それほどの熱心さは感じられなかった。その言動や考え方の根底にはそれぞれの宗教の教義があるのであろうが、彼女たちは実生活を優先し、日本に馴染む形で実行していたのではないか。そのことは彼女らが決して怠惰な信者である理由とならない。日本人も同様であろう。

日本人は日常においては確固たる神を崇拝しているわけではない。が、苦しい時には神仏に救いを求めて祈る。身近な人が亡くなった後、その存在を生前より大きく感じ、常にその存在に守られているような感覚を持つこともある。

宗教が苦悩や死に対する姿勢であるなら、これも信仰心の表れではないだろうか。日本人は確かに宗教を信じており、またそれによって救われてもいるのだ。

こういった日本人特有の信仰の曖昧さはどこから来たものであろうか。いくつかの理由があるだろうが、ここでは日本特有の自然から考えてみたい。日本にははっきりとした四季がある。それ故、自然災害も多様で複雑である。対策をしようにも一筋縄ではいかない。日本人はその自然災害も神々の一時的な怒りと捉えた。立ち向かってコントロールしようとするのではなく、受け入れ、いなしながら、その怒りが収まるのを待った。

その精神が新しく伝わってきた宗教も排除するのではなく、受け入れ、既存のものと組み合わせたり、必要な部分だけを取り入れたりして、独自のものとしてきた。宗教を尊重していないわけでも、節操がないわけでもない。この柔軟さは長い間をかけて日本人が生きるために身につけた知恵である。多様性を認めるしなやかな姿勢は決して恥じるべきものではない。宗教に対するこのユニークな国民性をむしろ誇りとしても良いのではないだろうか?

現代研究会

「文化と社会に関する様々なテーマ、諸問題を取り上げ、過去から未来への歴史的視野で考察し、議論を行う」ことがこの研究会の目的です。