2021年度前期現代研究会発表6 神道の歴史-つまみ食い
2021年度前期現代研究会発表6
神道の歴史-つまみ食い
2021年5月29日
竹内和正
「祭天の古俗」と言われる理論のない神道が、仏教、儒教、道教、陰陽道等の影響を受け、明治維新で国家神道にまでなったか、を辿った。
本居宣長に語源不明と断ぜられ、「尋常ではなく、すぐれたもので徳があり、畏怖すべきもの」と言われた神、紀記以前にはその祀り方も明らかではないが、その跡は残されている。
大宝元年の神祇令では都で行う祈年祭、月次祭に召集された国々の祝部が忌部氏に分け与えられた供物を国元に持ち帰り、その地で祈年祭、月次祭を行ない、供物を分け与えるという幣帛班給の体制が作られた。こうした祭りの儀式では青龍、朱雀、玄武、白虎の幡が掲げられ陰陽道の思想が表されている。
平安期桓武朝では古来の采女の制度が淫風であるとして廃止される一方、惟神の道の考え方が生まれ、高取正男氏はここに「神道が成立した」とする。
仁明朝では勅語で「神道を護持するには一乗の力(法華経)に如かず」と神道の仏法への従属が明らかにされる。
平安期、神仏習合があまねく行き渡るが、全国への幣帛班給がなくなる一方で、既に仏教忌避の兆しも見えていた。
中世に入ると、仏教側の本覚思想の広まりを受け、本地垂迹説でも本地の仏に対し、垂迹(仮の姿、権現)も本来的に悟っている姿として重視されるようになる。比叡山の山王神道(山王権現は釈迦の垂迹)、真言宗の両部神道(天照大神は大日如来の垂迹)等が理論化された。
この頃、仏教での浄穢の観念が、「清浄」を尊ぶ形で神道に取り入れられた。これはその後定着し、明治維新において神葬祭を推進しようとした時でも神社に遺体を持ち込むことを困難にし、神葬祭の定着を妨げることとなった。
中世神道思想の中で生まれた唯一神道(吉田神道)はいくつかの偽書を作って神道理論の中心に躍り出た。
近世神道は、戦国末期の法華一揆、一向一揆、切支丹の島原の乱等を弾圧平定した後で世俗権力を相対化しうる宗教的規範、理念が姿を消した中で育った。徳川幕府の権力を背景に吉田神道が影響力を強めていたが、印刷物の普及で古書の研究が進み、吉田神道は仏教や陰陽道の影響を受けて捏造された神話、教典に拠っていることが明らかにされることになった。
また、江戸幕府の民衆支配に利用された仏教、これに従属すさせられている神道に対し、儒教思想家で朱子学系の林羅山、吉川惟足、山崎闇斎、陽明学系の中江藤樹、熊沢蕃山らが儒教思想を神儒同一の排仏的神道を打ち出した。
この中で国学の宗教化ともいえる復古神道を打ち出したのが平田篤胤で、瓊瓊杵尊の神勅「この国は皇孫の天皇が支配する」を訴えた。これが明治維新に最も力を与えた勤王論に大きな意味を持っていた。とは言え、平田神道は維新政府の取る所とならなかった。
明治維新により、祭政一致、神仏判然令(神仏分離)から始まる神道政策が打ち出される。明治四年の太政官布告では「神社は国家の宗祀」とされ国家の中心に至る。だが仏教側(特に浄土真宗)の抵抗も強く、政府は信仰の自由の方向に進む。
その後「神社は国家の宗祀」であれば、他の宗教と同様に管理すべきではないとして、明治33年内務省の社寺局を廃し、「宗教ではなく宗祀」である国家神道を推し進める神社局と、社寺管理をする宗教局(後文部省管轄へ)とに分けられた。
1945年の敗戦でGHQは国家神道を廃止、ナショナリズムをバックに地位向上を続けてきた神道は大人しい民間宗教となり、現在葬式仏教とともに存在している。
この先はどうなるのであろうか。
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