2021年度前期発表1 宗教的なもの―個人的体験と私の宗教論―
2021年度前期現代研究会発表1
宗教的なもの―個人的体験と私の宗教論―
2021年4月17日
実松克義
現代研究会で宗教をテーマにした書籍を出版することになった。これを機会に宗教について考えたことを少しばかり述べてみたい。我々が「宗教」と呼ぶものはいったい何なのか。はじめに若い頃の個人的体験を語る。ついで宗教の語源、起源、また本質と役割を述べ、さらには宗教の現状に触れる。そして最後に自分自身の話に戻り、結論を述べたい。以下は、きわめて個人的な宗教論である。
まずは自分自身の話から始める。
筆者はけっして宗教的な人間ではない。一生を通して特定の宗教を信仰したこともなければ、特定の宗教団体に加入したこともない。宗教と聞いて思い浮かぶのは実家が代々浄土真宗であったぐらいで、葬儀や法事の際の読経や法話が唯一の宗教(仏教)との接点であった。しかし宗教的なものと無関係な人生であったと言えばそれも嘘になる。よく考えてみると実際に関係がなかったのは信仰としての宗教であって、宗教的なものへの関心また関りはたえず存在した。それは筆者の人生の中で、時期によって程度の差こそあれ、仕事あるいは趣味の重要な部分を占めていた。実際にしばらく前までは勤務先の大学で(わかったようなふりをして)宗教人類学を教えていた。何故そうなったのか。はじめにその経緯を話したい。
振り返ってみると、これまでの人生の中で、筆者が真剣に宗教的なものに近づいた時期があった。二十代のはじめに筆者は自分の人生を変える書物に出会った。カルロス・カスタネダのドン・ファン三部作、『ドン・ファンの教え』(1968年)、『分離された現実』(1971年)、そして『イクストランへの旅』(1972年)である。三部作の主人公であるアメリカ・インディアン、ヤキ族(メキシコ、ソノラ州を中心に住む)のシャーマン、ドン・ファン・マトゥスとその教えは筆者に大きな影響を与えた。(ドン・ファンは当時のアメリカのカウンター・カルチャーの象徴であり、多くのアメリカの若者を熱狂させ、社会現象となった。)この頃の筆者の人生は試行錯誤の連続であり、その時、ドン・ファンの言葉はあたかも啓示のごとく響いた。筆者は真の宗教的体験がいかなるものかを知らないが、かなり近いものであったのかもしれない。実際にドン・ファンのようなシャーマンに会ってその教えを学んでみたいと思った。その結果、筆者はアメリカに留学して人類学を学ぶことになる。ただ様々な経緯があり、実際に留学中に出会ったのはシャーマンではなく普通の人々であった。その時の体験も普通の異文化体験にすぎない。しかしこの一連の出来事の影響は永続的なものであった。筆者は後年、大学に職を得るが、それをきっかけに過去の関心が再燃し、今度はシャーマニズムの研究者として、マヤ地域、アンデス地域、あるいはアマゾン地域を訪れ、先住民族宗教文化のフィールドワークを行うことになる。
以上は筆者の個人史であるが、それを踏まえて宗教とは何かを考えてみたい。
はじめに語源である。
「宗教」の語源を調べてみると、それがかなり人為的に作られたものであることがわかる。日本語の「宗教」は英語のReligion等の訳語である。Religionはラテン語のReligiō(畏怖、畏敬、宗教的感情ほか)が語源だが、その動詞形はReligōで、「(人と神を)結び付ける」という意味である。つまりキリスト教を前提とした宗教概念である。(またReligiōあるいはReligionがキリスト教以外をも意味するようになったのは19世紀以降のことである。)一方、日本語訳である「宗教」は明治初期に仏教、神道、キリスト教等を包含する用語として採用された。
このような歴史的経緯であるから、当然、「宗教」の定義はまちまちで、宗教的伝統によって、また文化圏によってかなり違ったものになる。よく宗教の定義は研究者の数だけあると言われる。さらにはまた多くの文化ではこうした用語そのものが存在しない。「宗教」とはきわめて曖昧かつ多義的な概念である。しかしだからといって「宗教」概念が無意味だということではない。少なくとも「宗教的なもの」は人間文化を通貫する要素であろう。何故ならそれは人間存在の根幹に関わるものだからである。
宗教的なものの起源とは何か。
2011年3月11日に起きた東日本大震災は自然の力、恐怖をまざまざと見せつけた。本居宣長は「迦微(かみ)」(神のこと)を「可畏き物(かしこきもの)」(畏怖すべきもの)と呼んだが、原初の人間にとって自然とは恐怖・畏怖以外の何物でもなかっただろう。それが最初の出発点であった。また生きとし生けるものとしての人間の喜び、苦しみは直接体験の記憶として蓄積していったであろう。しかし宗教的なものの誕生にはさらなる飛躍が必要であったと考える。それは何か。「生命の糸」(筆者の造語:死を超えた生命の継続を意味する)の自覚、発見ではないだろうか。生きている人間は年老いて死ぬ。しかしその一方で新しい生命が誕生する。死と誕生は無限に繰り返される生命のサイクルである。この循環において、個としての人間は死ぬ、しかし類としての人間は継続する。したがって獲得した知識、創り上げた文化と社会は親から子に、そして孫へと継承される。生命の糸を主体的に認識した時に人間の意識は進化したのではないだろうか。それは自然の神秘、人間の起源、神々の存在、彼方の世界を考える想像力を刺激したであろう。(生命の糸の類似概念は日本の民俗宗教では「すじ」と呼ばれる。「すじ」とは「筋」のことであり、古代血縁社会の基盤である。また同時に「種子」とも書き、農業とも結び付いている。)
こうして限りなく遠い昔に宗教的なものの原型が形成された。それは混然一体とした生きるための知恵の体系のようなものであったと思われる。
以上は起源に関する私見だが、歴史を俯瞰するといまから四、五千年ほど前に(あるいはもっと前かもしれないが)大きな社会的発展があったと思われる。その時、現在の既存宗教の祖先とも言える原宗教が誕生した。そしてその後の展開はよく知られている通りである。
宗教の本質とは何か。
宗教は西洋で成立した概念である。したがって西洋人の意見を取り上げるのが最も自然であろう。フランス人社会学者・人類学者エミール・デュルケームはオーストラリア先住民族のトーテミズムの研究で知られるが、宗教の持つ社会的機能を重視した。西洋社会もまた一種の宗教共同体であり、キリスト教とその教会組織は大きな役割を担っている。これと対照的にアメリカ人心理学者・哲学者ウイリアム・ジェイムズは徹底して個人にとっての宗教の意味を考えた。ここでも宗教とはもちろんキリスト教を意味するが、彼によれば、神とは個人の精神に内在する高い能力である。これらは宗教の持つ二つの側面、社会性と個人性を端的に表している。またルーマニア生まれの宗教学者ミルチャ・エリアーデは多くの宗教概念を作ったが、とりわけ「聖と俗」という対比を考え、宗教とは「聖なるもの」の営みであるとした。「聖なるもの」とはドイツの宗教学者ルドルフ・オットーがはじめて提言した宗教概念で、ヌミノーゼ(オットーの造語:人間が超越者に持つ畏怖の感情)に基づいている。
しかしこれらはすべて西洋文化における宗教理念である。世界はとても広く、様々な宗教観が存在する。筆者が個人的に調査したアンデス文化では、キリスト教(カトリック)と同時に、聖山信仰に基づいた独特の二元論が存在する。また我々の住む日本でも神仏習合と呼ばれる複雑な宗教混交の奥に日本古来の死生観、祖先信仰が見え隠れする。
現代における宗教の役割とは何か。
多様な宗教伝統が存在するため、この問いに画一的に答えるのは困難である。ここではただ世界最大の宗教であるキリスト教においては、回心(Born again)と救済(Salvation)が大きな意味を持っていると言っておこう。唯一絶対神の恩寵によって罪深い人間は清らかになり救われる。しかしこうした宗教の役割はすべての宗教伝統に共通しているわけではない。とりわけ日本人にとって宗教の役割はきわめて現実的な問題解決にあると思われる。しかしそれでも一つのことは言えよう。それがどういう形であれ、もし宗教に重要な役割があるとすれば、それは人間の精神生活を豊かにすることではないだろうか。宗教が聖なるものであろうとなかろうと、それは、人間が自らの存在理由(Raison d'être)を問い、あるいは生甲斐を見付ける際に不可欠な精神の糧である。その意味で、アメリカ人心理学者アブラハム・マズローが至高体験(Peak Experience)を正常な精神生活を完結する最終要素としたのは正しい。
現代において宗教はどうなっているのか。
最も顕著な傾向は伝統的な宗教の没落である。地域や国を問わない。日本ではオウム真理教地下鉄サリン事件のため人々は宗教嫌悪症になった。その影響はいまでも続いている。世界では9.11を契機として大きな変化が起きた。アメリカでキリスト教原理主義が台頭し、世界的にはイスラームが増大したのである。そして現在では、とりわけヨーロッパで、無神論者あるいは宗教に興味を示さない人々が急増している。何故なのか。正確な理由はわからない。しかし確実に言えるのは、現代においては伝統的な宗教がもはや機能しなくなっていることだ。科学技術とインターネットの進歩は宗教の存在意義を追い越してしまった。あるいは科学技術が宗教に取って代わってしまった。そしてその結果起きた途方もないグローバリズムは人間社会の不均衡を急激に拡大させている。
しかしそれにもかかわらず宗教の没落は必ずしも宗教的なものの消滅を意味しないのかもしれない。たとえば最近の日本での宗教意識の調査によれば、若者のあいだでのスピリチュアリティ(つまり個人にとっての宗教)への関心はむしろ昔よりも強くなっているという。ヨーロッパの無神論者の間でもキリスト教以外の宗教的伝統(たとえば禅やシャーマニズムなど)への関心が高まっていると聞く。これらの事実を考えると、宗教的なものは消えてしまったのではなく、現在も伏流して持続していることになる。
だがその未来は漠然としている。少なくともこれまでとは異なる次元で宗教的なものが問われているのは間違いない。そしてそこにある問題の核心はもはや宗教性(Religiosity)ではなく人間性(Humanity)そのものであるように思われる。
最後に結論を述べねばならない。
これまでに論じた「宗教」あるいは「宗教的なもの」は筆者自身といかに関係しているのか。冒頭で述べたように、宗教的なものとの筆者の最大の出会いはカスタネダのドン・ファン三部作であった。筆者はアメリカ・インディアンのシャーマニズムの中に人生を変える霊的覚醒を見出した。同一テーマとの再会後は、今度は宗教文化の研究者として中南米でフィールドワークを重ねた。宗教的なものを言わば内側と外側から見たことになる。しかしその結果はあまり釈然とするようなものではない。もともとあまり能力のない人間が人生の契機に思い立って行ったもので、大した期待もできないが、ただその実践が精神に安定を与えたことも事実である。シャーマニズムの伝統には、よく、失われた魂を探して取り戻す話があるが、おそらくは類似の意味があったのであろう。
宗教的なものは何故存在するのか。
人間がそれを必要とするからである。何故必要とするのか。人間が自己意識を持つ動物であるからである。(自己意識は長い歴史的文化的営為を経て獲得された。)人間はこの世界に生きていることを自覚し、必然的にその意味あるいは存在理由を探す。また所属する文化と社会の起源と歴史を知りたいと思う。さらにはまた、未知なるもの、理解を超えたもの、彼方の世界を探求したい衝動に駆られる。宗教的なものとはそうした、人間の運命付けられた情熱ではないだろうか。
「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」
―ポール・ゴーギャン絵画題(1897~98年)―
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