2021年度前期現代研究会発表2 「仏教と仏教学」
2021年度前期現代研究会発表2
「仏教と仏教学」
2021年4月17日
平林二郎
2021年度前期,現代研究会は「宗教(宗教的なもの)」をテーマとして研究会を開催している.発表者は仏教を専門に研究していることから,本発表では,①仏教は宗教か,②仏教とは何か,③仏教と仏教学の差異について考察し,最後に④現代において仏教学を学ぶ意義について提言した.
①仏教は宗教か
仏教は,キリスト教,イスラームとともに「世界三大宗教」の1つであるといわれている.しかしながら,「宗教」の定義は研究者によって異なっており,何を「宗教」とするかは結論し難い.「世界三大宗教」という用語も,日本では一般的に使用されているが,なぜ,仏教,キリスト教,イスラームを「世界三大宗教」とするのか,その詳細はわからない.
「宗教」の定義の例を挙げれば,岸本英夫は「宗教」を以下のように定義している.
宗教とは,人間生活の究極的な意味をあきらかにし,人間の問題の究極的な解決にかかわりをもつと,人々によって信じられているいとなみを中心とした文化現象である.(岸本英夫『宗教学』,大明堂,1961,p. 17)
岸本の定義を踏まえ仏教について考えてみたい.
小乗仏教は,瞑想(禅定)などの修行をおこなうことにより,輪廻(=生まれ変わり続けること)から解放された(=解脱した)阿羅漢(修行者の最高位)になることを目指す.小乗仏教の出家修行者の立場から見れば,仏教は人間生活の究極的な意味の1つをあきらかにするものであると考えられる.しかし,在家信者や一般の民衆からみれえば,出家しなければ阿羅漢となれない小乗仏教が人間の問題の究極的な解決になっているとは考え難い.
一方で大乗仏教は,すべての人々を救済し(利他),般若波羅蜜(智慧の完成)を覚り,仏となることを目指す.大乗仏教では人間の問題の究極的な解決がなされるかもしれないが,仏に救われる一般の人々が人間生活の究極的な意味をあきらかにする必要性は低いと考えられる.
次に,匿名で編集されているため研究には使用できないが,Wikipediaでは「宗教」が以下のように定義されている.
宗教(しゅうきょう、英: religion)とは,一般に,人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり,また,その観念体系にもとづく教義,儀礼,施設,組織などをそなえた社会集団のことである.(https://ja.wikipedia.org/wiki/宗教,2021年4月16日閲覧)
Wikipediaの「宗教」の定義から仏教について考えてみたい.
小乗仏教において,釈迦は人間として覚ったものと説かれており,この内容を見る限り小乗仏教は宗教であるとは言えない.
一方で大乗仏教では,釈迦が超人的な存在として説かれており,大乗仏教は宗教であると言える.
以上を見ると,「仏教が宗教であるか」は何を宗教と考え,何を仏教と考えるかによって答えが異なるということになる.
②仏教とは何か
初期仏教,部派仏教,小乗仏教,大乗仏教,密教,これらはすべて仏教ではあるが,それぞれに伝播した歴史や地域が異なり,思想的にも違いが見られる.何を仏教と考えるは,どの仏教の立場で仏教を考えるかによって異なる.本発表では七仏通戒偈の逸話を例に挙げ考察をおこなった.
七仏通戒偈の内容は以下である.
・漢訳
諸悪莫作:もろもろの悪を作すことなかれ
諸善奉行:もろもろの善を奉行し
自浄其意:自ら其の意を浄くせよ
是諸仏教:是れ諸仏の教えなり
(『法句経』T4.567b1–2)
・パーリ(Pāli)文
sabbapāpassa akaraṇaṃ:すべての悪いことをなさず
kusalassa upasampadā:善いことを具える
sacittapariyodapanaṃ:自らの心を清める
etaṃ Buddhāna sāsanaṃ:これが仏たちの教えである
(Dhp verse 183)
この七仏通戒偈については,唐の白居易(白楽天 772–846)と鳥窠道林(鳥窠和尚 741–824)の有名な逸話がある.以下にその内容を紹介したい.
曰佛法大意如何。師曰。諸惡莫作衆善奉行。曰三歳孩兒也解恁麼道。師曰。三歳孩兒雖道得。八十翁翁行不得(『釋氏稽古略』T49.833a04–6)。
中国唐の詩人・白居易(白楽天)は禅を好み、禅僧・鳥窠道林(鳥窠和尚)に「仏教の真髄とは何か」と問うたところ、この偈(七仏通戒偈)の前半(諸惡莫作諸善奉行:もろもろの悪を作すことなく,もろもろの善を奉行する)を示された。白居易は「こんなことは3歳の子供でもわかるではないか」といったが、道林に「3歳の子供でもわかるが、80歳の老人でもできないだろう」とたしなめられたため、謝ったという(https://ja.wikipedia.org/wiki/七仏通誡偈,2021年4月16日閲覧,( )部分は発表者による補い).
小乗仏教や大乗仏教など仏教の思想は多岐に亘っている.しかしながら,誰もがわかってはいるが,行えないことを実践するという七仏通誡偈の内容は諸仏教に通底しているものであり,仏教とは何か,その答えをあらわしている1つであるといえるだろう.
③仏教と仏教学の差異
日本の仏教を見ると,仏教の宗(根本,もとづくところ)の教えは,天台宗,真言宗,浄土宗,浄土真宗,日蓮宗,臨済宗,曹洞宗などにわかれている.いずれかの宗派を信じているのであれば,その宗派の開祖の教えや,宗派の伝統に沿った仏教思想の理解が仏教を学ぶということになる.
一方で,仏教の歴史的な変遷,思想の差異などを明らかにするのが仏教学であり,仏教学は経典や論書などの仏教文献を研究対象とする文献学が中心となっている.
この一例として善という語について簡単に考察してみたい.
真言宗などが重んじるものとして「十善戒」という以下の道徳的な生活習慣がある.
1. 不殺生 生き物を殺さない
2. 不偸盗 盗まない
3. 不邪淫 不倫などを道徳を乱す関係を持たない
4. 不妄語 偽りを言わない
5. 不綺語 ふざけたことを言わない
6. 不悪口 悪口を言わない
7. 不両舌 仲たがいをさせるようことを言わない
8. 不慳貪 貪らない
9. 不瞋恚 怒らない
10. 不邪見 誤った見解を持たない
仏教者の生活としてはこのような生活習慣を守ることが善であると考えられる.この十善戒の善にあたるもとの言葉はインドのサンスクリット〔語〕ではkuśala(クシャラ)であり,このkuśalaは善い,正しい,有益な,巧みなといった意味で使用される.この意味を踏まえれば十善戒は十の正しい(有益な)生活習慣とも考えられるだろう.この真言宗などで説かれる十善戒という用語からみると,善とはkuśala(正しい,有益,巧み)という内容になる.
しかしながら,この他の仏教では,善という言葉が,puṇya(プンヤ)という福,福徳を意味する語の訳として使用されている箇所が見られ,dharma(ダルマ)という道徳などを意味する語の訳としても使用されている.このように善という言葉を文献学的に考えることが仏教学の特徴の1つである.
④現代において仏教学を学ぶ意義
現代において仏教学は,経済学や法学のように,すぐに利益をあげるような学問ではない.しかしながら,仏教文献を通して人間が過去に悩んできたことを学び,対機説法のように,誰かが悩みや問題を抱えているときに,環境や状況に合わせて,ともに悩み,ともに解決策を考えることが仏教学を学ぶ意義ではないかと発表者は考えている.
近年,現代において「役に立たない仏教学は不要」といった意見を目にすることが増えた.この意見は,仏教学を学んでいない人,もしくは,仏教学に真剣に取り組まなかった人による仏教学に対する偏見である.仏教学研究では,自分に必要な文献を探し,多くの文献から適切に情報を読み取り,分析・考察しなければならない.仏教学研究で学ぶ研究方法は,情報化社会において,フェイクニュースなどに惑わされず,自分に必要な情報を取捨選択し,何かをなす際に必要となるものだからである.
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