2018年度後期発表8 いっぱい世界のふえ世界―地域創生のスピリットを探る―
いっぱい世界のふえ世界―地域創生のスピリットを探る―
実松克義
神奈川県小田原地方に伝わる二宮尊徳の教えがある。「いっぱい世界のふえ世界」と言う。「いっぱい世界」とは全体の資源、富の量が決まっている世界である。人間はその中で必死に努力して少しでも豊かになろうとしている。だがそこでは一人の人間の成功は多くの人間の失敗を意味する。これは空しいことではないのか。すべての人間が調和的に豊かになる方法はないのか。ある。だがそのためには世界を拡大しなければならない。これまでなかったものを発展させなければならない。それが「ふえ世界」である。二宮尊徳は「ふえ世界」の実現のために生涯を捧げた。このブログでは二宮尊徳が行なった地域創生の実践を振り返り、その手法と思想を考え、我々がそこから何を学ぶことができるのかを探りたいと思う。
二宮尊徳(幼名金次郎)の一生は波乱万丈であるが、ここでは簡単に輪郭だけを述べておく。二宮尊徳は1787年、相模国足柄上郡栢山(かやま)村(現在は神奈川県小田原市栢山)の裕福な農家に生まれた。しかしわずか5歳の時、一家は大洪水によって財産を失い、極貧の生活を送る。14歳で父を、16歳で母を失くすが、努力と才覚により二宮家を再興する。25歳の時、尊徳は小田原藩家老服部家に奉公し、指導者としての頭角を現す。やがて藩主大久保忠真(おおくぼただざね)に登用され、藩の財政再建を委託される。五常講はこの時に創設された。次いで荒廃した小田原藩、野州桜町領の復興を依頼され、尊徳は10年の苦闘の後、事業を成し遂げる。その後、危機に瀕した多くの村々、藩が尊徳を頼り、尊徳は全力を尽くして再建を行う。1833年から7年も続いた天保の大飢饉の際も、尊徳が復興させた村は1人の餓死者も出さなかったという。尊徳が生涯に救済した村や領地は615にも及ぶ。尊徳は、1846年、『仕法雛形(84冊)』を完成し、1856年、日光神領仕法の途上、70歳で没した。
尊徳は日本における地域創生の元祖とでも言うべき人であるが、ここでは尊徳が行なった事業のうち、五常講と桜町仕法について述べる。
1820年(原型は1814年)に創設された五常講は世界最初の信用組合(金融機関)である(西洋最初の信用組合より44年も早い)。尊徳は金融の天才であった。いかにしてお金が動き、経済が回るのかを、経験的に、また数値的に理解していた。困窮した家臣の救済のため、忠真は苦しい財源から1000両を貸下した。そのうち300両が尊徳に与えられ、尊徳はこの300両を基に独特の金融システムを創った。借用者は100人、一人最大3両まで、無利子・無担保で100日間借りることができる。ただし参加者全員が連帯保証人となり、返済不履行者が出た場合は共同で弁済しなければならない。五常講の精神は儒教の人倫五常、仁、義、礼、智、信にある。すなわち貸与者は仁愛を持って貸し、借用者は信頼、誠を持って返す。また借用者は返済の際、財政状況に応じて冥加金(みょうがきん)を推譲する。これは実質的に後払いの利子であるが、自発的な行為である。
野州桜町領は現在の栃木県真岡市二宮地区にあたる。当時ここは小田原藩四千石の旗本宇津汎之助(うつはんのすけ)の領地であった。桜町領は元禄期(1688年~1704年)には433軒、人口は1,915人もあったが、1821年には156軒、人口749人に没落していた。年貢も3,100俵から1,005俵に激減していた。農地は荒れ放題で、多くの家が倒壊寸前、人々は仕事をせず、昼間から酒を飲み、博打を打つという有様であった。1821年秋にはじめて調査のため現地に足を踏み入れた尊徳は「百姓の風俗悪く、人気きわめて惰弱なり」と記している。一年間にわたる詳細な調査の後、再生可能と見た尊徳は忠真に報告し、約束を取り交わした上で復興作業を開始する。その約束とは、10年後に現在の年貢を倍増させる、ただし、一切を尊徳のやり方に任せる、10年間は年貢を1005俵(及び金127両)に留める、余剰分は復興の費用とする、というものであった。
尊徳の復興の方法は「仕法」と呼ばれる。桜町仕法は初期から中期にかけて比較的順調に進んだ。これは尊徳のやり方が人間味に溢れ、民主的であったためである。だが問題は絶えず存在した。農民同士の問題、既存農民と入植者の関係、村役人の抵抗などである。やがて1827年に小田原藩から上役として豊田正作(とよだしょうさく)が赴任する。豊田は反対派を巻き込み、進行中の仕法を徹底的に妨害した。最後には、尊徳は小田原藩に辞表を出すが、それも無視され、万策尽きた尊徳は1829年の正月、江戸で姿を消す。残された人々は途方に暮れて尊徳の行方を探す。尊徳は成田山に籠って21日間の断食行をしていた。やがて尊徳の居場所がわかり、人々は尊徳を連れ戻す。その後、仕法は順調に進むようになり、最後には豊田正作でさえも協力者となる。そして桜町領は10年後の1831年には1894俵(達成度95%)の年貢を納入できるほど復興したのである。
尊徳の「仕法」はいかにして為されたのか。
いくつかの重要なポイントがある。第一に言えるのは、それが援助に頼らない、自力更生であることである。何故援助を頼まないのか。人々が援助を奪い合う結果になるだけだからだ。ではいかにして自力更生は可能か。尊徳は忠真の疑問にこう答えている。「荒無の開拓には荒無の力をもって、哀貧の救済には哀貧の力をもって」。尊徳はそれを可能にする共同体の経済原理を知っていた。その原理を生かすため、尊徳は綿密な事前調査をし、それに基づいて仕法を立案した。では仕法の根本原理とは何か。「分度」と「推譲」である。「分度」とはそれぞれの経済状態に即して使えるお金の限度額である。一方、「推譲」とは余ったお金を社会に還元することである。だがもっと大事なことがある。それが「心田開発」である。「心田」とは何か。心という田を耕し開発すること、つまり、やる気を出すこと、夢を持つことである。それなくして仕法は成就しない。
最後に尊徳の思想を要約する。
尊徳の思想は「報徳思想」と呼ばれる。この場合、「徳」とはすべてのもの、すべての人間が持っている可能性、ポテンシャルのことである。仕法を実現するにはこれらの徳を引き出さねばならない。「報徳と」とは『論語』の「徳をもって徳に報いる」に由来するが、徳を生かす、ということである。だがそのためには諸徳の特性、作用原理、関係性を把握する必要がある。ここで尊徳は「天道」と「人道」を区別した。「天道」とは自然法則のことである。「人道」とは人間社会の理のことである。それぞれまったく異なる原理である。ではいかにしてこれらを最大限に利用できるのか。尊徳が最後に辿り着いたのが「一円融合」の思想である。これはすべてのことがら、すなわち「徳」があたかも一円の中で融合するように協働する時、最高の結果を生むというものである。一種の「和」の思想、「調和」の思想と言ってもよい。尊徳は成田山断食行の時この境地に達したと言われる。その時に創った句の一つを記す。
「見渡せば敵も味方もなかりけり、おのれおのれが心にぞある」
「いっぱい世界のふえ世界」とは尊徳の報徳思想、「一円融合」の思想をわかりやすく表現したものである。
以上が二宮尊徳の仕法とその思想についての略述であるが、あらためてその特色を筆者の個人的見解で整理してみよう。
尊徳の仕法で最も印象的なのはそれが自力更生の方法論であることである。復興に際して尊徳は一切の資金援助を断った。資金援助があれば、人々は競って援助金を奪い合い、また怠惰に流れ、復興が頓挫することを知っていたのである。これは地方創生において現代日本の行政がばらまく助成金、あるいは開発途上国に提供しているODAの末路を考えればよくわかる。尊徳の方法論は「荒地は荒地の力によって、貧困は貧困の力によって」状況を改善することであった。尊徳は魔術を使って奇跡を起こそうとしているのではない。地域社会を地域自身の力で内側から変革する方法を語っているのだ。すなわち決められた「分度」を守り、「推譲」を重ね、「積小為大(小さなことの積み重ねが大きなことを為す)によって地道に実力をつけることである。
尊徳の仕法を可能にしたのは科学的データであった。尊徳は社会実践家であったが同時に研究者でもあった。彼は独学と経験によって共同体の経済原理を理解していた。そのため仕法に先立ち、長期間詳細な調査をしている。桜町仕法において、尊徳は、桜町領の元禄以降の過去120年間の年貢収入、人口、田畑状況、用水・排水、各農家の耕地面積、家族構成、借金等を詳細に調査した。それに基いて復興事業に必要な分度(支出限度額≒可能な年貢)を決め、仕法を立案し、実施に取りかかっている。その徹底性、準備の周到さには驚くほかはない。
だが尊徳は立案した仕法をただ機械的に、無機質に実施したのではない。仕法の実施は尊徳の人間性の理解に基いていた。尊徳は自らも農民であり、農民の心を理解し、その喜び、哀しみ、苦しみ、悩みをよく知っていた。だから仕法を開始する前に心田開発を行ったのである。人間は機械ではない。希望と夢あるいは動機がなければ積極的に動くことはない。
次には尊徳の強いリーダーシップがある。桜町仕法の実施に際して、尊徳は藩主忠真に、すべてを自分に任せてほしいと言っている。尊徳はカリスマと不屈の意志によって強いリーダーシップを発揮した。桜町仕法だけではない。リーダーシップを発揮できた仕法はすべて成功している。逆に、できなかった仕法は失敗している。尊徳のリーダーシップの秘密はまた尊徳の人間的、民主的な手法にもある。尊徳は、名主、組頭を決める際、また報償を与える際、「芋こじ」と呼ばれた会合において、農民自身の投票によって決定させた。
最後に、尊徳の「一円融合」の思想の意義を述べる。これは調和の思想であるが、同時にまた独特の進化の思想でもある。「いっぱい世界のふえ世界」にもあるように、共同体を、また社会を復興し、改善するためにはその世界の枠を拡げなければならない。社会が依って立つ基盤、資源、富の量を増やさなければならない。あるいはその使い方を改善しなければならない。それは自然と人間が持っているポテンシャルを発見し、生かすことである。もちろんこれを無条件に行えば自然の破壊、新たな社会破綻を招く。したがって倫理観に基いた共生の理念を持って抑制し、調和ある発展を実現しなければならない。
尊徳の報徳仕法は現代の地域創生においても応用が可能なのか。
十分に可能であると思われる。もちろん尊徳の時代と現代では社会状況が異なる。尊徳が生きた時代は江戸時代の末期である。硬直した長年の封建社会の矛盾が限りなく累積し、破綻寸前の時代であった。経済は停滞を続け、人口は地域によっては激減した。幕府は弱体化し、諸藩は財政難に苦しみ、多くの農村は荒廃していた。また農民は身分制度のため土に縛り付けられていた。それから二百年経った現代はまったく異なる世界である。日本は急速に近代化(西洋化)し、多くの過去を脱ぎ捨てた。民主主義と人権思想は人間を自由にし、戦後の高度経済成長は豊かな社会を実現した。最近の科学技術の進歩、特にインターネットの発展は新世界を開いた。しかし成長には限界があった。出生率の急激な低下により、人口減少が始まり、社会は老齢化し、経済は下降の一途をたどっている。とりわけ地方は危機的状況にある。その意味で、時代こそ違え、尊徳の時代と現代は似ているのである。
では尊徳の方法論はいかにして現代に生かせるのか。おそらくはその透徹した科学性と人間的な実施方法によってである。より具体的に言えば、我々は直面する問題を徹底して研究しなければならない。それに基いてヴィジョンを持った長期プロジェクトを立案し、それを不退転の意志で実施しなければならない。(我々はまだ何もやっていないのではないだろうか。)その結果、現在の行き詰まった状況の突破口が見つかるのではないだろうか。出口なしの「いっぱい世界」から「ふえ世界」へと脱することができるのではないだろうか。もちろん資本主義経済が極度に発達した現代においては「ふえ世界」はもはや経済の拡大を意味しない。さらなる拡大が何をもたらすのかは明らかである。現在起きている人口減はそれを示す、自然が与えた警告である。我々が目指すべき「ふえ世界」とは、負のスパイラルに陥った既存社会の在り方を叡智の力によって再編成することであろう。
残念ながら、極度の人口減が続いている現代日本においても、国家政策は依然として「いっぱい世界」の維持にしがみついている。「ふえ世界」への道を拓くためには、徹底した調査と計画立案、また構造改革が必要であるが、利害が複雑に絡み合っていてできない。結局何もしたくないのだ。そのため行われている地域創生の多くが旧世界の中でもがき苦しんでいる。だが尊徳の「ふえ世界」のスピリットに通じる創造的な試みもまた存在する。以下、すでに以前に述べた三つの自治体の地域創生、大分県臼杵市、徳島県神山町、及び佐賀県鳥栖市を再度取り上げ、あらためて尊徳の仕法に通じる地域創生のスピリットを考えてみよう。
大分県臼杵市の地域創生で特筆すべきは農業の復権と自給自足社会の構想である。この歴史都市はその伝統に安住するのではなく、100年後を見据えて、社会的経済的に自立したコミュニティを建設しようとしている。臼杵型地域内循環システムの中心は有機農業による食糧生産とバイオマス・エネルギー・パークの構想であるが、特に農業において興味深い試みを行っている。土の製造である。臼杵市はすでに2010年に大規模な土づくりセンターを建設している。そこで「うすき夢堆肥」と呼ばれる土を製造する。化学物質を使わず、原料である草木類(65%)、農産物残渣(10%)、豚糞(25%)を、六か月かけて完熟させたものである。ミネラルを多く含み、微生物が活動しやすく、水はけがよいなど優れた特性を持つ。有機農業はこの堆肥を使って行われる。これを聞いた時に筆者はアマゾンの人工土壌、テラ・プレタ(ポルトガル語で「黒い土」の意味)を思い出した。熱帯の土壌は栄養価が低い酸性土で、またアルミニウム、珪素等を含むため農業には向かない。だがアマゾンの古代人はテラ・プレタと呼ばれる土壌を発明して大規模な農業を行った。夢堆肥は日本のテラ・プレタとも言える。農業による食糧生産は人間社会存続のための最低条件である。100年後、あるいは200年後に、万一(ないとは思うが)、東京等の「大都市」が崩壊し、貨幣が紙屑同然となり、日本社会が崩壊の危機に瀕した時、臼杵市のような自給自足経済システムを構築した「地方」のみが生き延びるであろう。
徳島県神山町の地域創生いわゆる神山プロジェクトは、極めて現代的な地域創生の実験が行われているという点で特筆される。この地域創生においては日本の超過疎地と最先端の情報コミュニケーション技術(ICT)が結び付いた。それを可能にしたのは人々の努力であるが、これまでとはまったく異なるコミュニティの発展が見られる。これまで都市の形成は地理的(空間的)必要性に基いていたが、神山プロジェクトの展開はそれが不要であることを示した インターネット技術が地理的距離、空間的障害を失くしたのである。その結果、この山間の僻地に都市的環境が創成されることになった。この新しい展開はおそらく仕掛け人である大南信也氏を始めとするNPO法人グリーンバレーの人々も予測できなかったであろう。神山町に日本全国から、あるいは世界から続々と人が集まってきている。定住者を増やすためには仕事を創出する必要があるが、多くの企業が関心を示し、現地に進出しつつある。そしてこのプロジェクトが現在最も力を入れているのが農業の振興であるという。やはりそうかと思う。臼杵市の例にもあるように、最後の生命線となるのは、大地の力による食糧の生産である。自然の中の都市、神山町は継続して発展し、新しい形態の共同体として定着するのか。ICT技術による新しい産業社会構築は成功するのか。それともSF的空想に終わるのか。その成否はこれからの地域創生の方向性を決める大きな前例となるだろう。。
すでに述べたように、鳥栖市は地域創生において大成功を収めた自治体である。これは徹底した産業立市の結果であるが、ここでは繰り返さない。もう一つ鳥栖市が力を入れている領域に文化の(再)創造がある。その一つに「教科「日本語」」がある。これは小中一貫教育として実施されているカリキュラムで、その時間は国語、社会科、その他の科目の時間を一部削って捻出される。教材として鳥栖市教育委員会が独自に作成した小学校から中学校まで4種類の教科書を使う。これらの教科書を見ると、従来の国語の教科書とはかなり性格が異なることがわかる。相違点の一つは、日本語自体というよりは、日本語で創られてきた伝統、つまり日本文化を教えていることである。その範囲は詩・文学から伝統・慣習まで、非常に広い。もう一つは郷土である鳥栖市、また佐賀県の文化と歴史が教えられていることである。この第二点は地域創生という視点から非常に重要なポイントであると思われる。長期的に考えた場合、ある地域が、そこに住むに値する、あるいは住みたくなる地域であるためには、雇用の創出(最も重要なものではあるが)や生活環境、教育環境の充実のみではやはり不十分であろう。その地域のオリジナルな文化を魅力あるものとして維持発展させ、あるいは新たに創り出すことが重要であろう。そしてその活力となるのはやはり教育ではないだろうか。「教科「日本語」」は日本人としての、また鳥栖人としてのアイデンティティの確立を目標としている。このカリキュラムの結果がどうなるのか、これから見守ってゆきたい。
主要参考文献:
日本の名著26 『二宮尊徳』 児玉幸多責任編集 中央公論社 1970年
奈良本辰也 『二宮尊徳』 岩波新書 1959年
佐々井信太郎 『二宮尊徳伝傳』 経済往来社 1977年
和巻耿介 『草の巨人―二宮尊徳伝』 毎日新聞社 1991年
佐々井典比古 『尊徳の裾野』 有隣堂 1998年
猪瀬直樹 『ゼロ成長の富国論』文藝春秋社 2005年
大貫章 『二宮尊徳の生涯と業績―報徳仕法の理論と実際』 幻冬舎ルネッサンス 2009年
小林惟司 『二宮尊徳―財の生命は徳を生かすにあり』 ミネルヴァ書房 2009年
石原俊彦監修・日廻文明・井上直樹編 『歴史と文化のまち 臼杵の地方創生』 関西学院大学出版会 2017年
臼杵市役所 「臼杵市バイオマス産業都市構想 ~100年の森づくりから、有機の里づくりと海のほんまもんへ、臼杵型地域内循環システムの構築を目指して~」 2015年
http://www.jora.jp/tiikibiomas_sangyokasien/pdf/usuki_k.pdf
NPO)法人グリーンバレー/信時正人 『神山プロジェクトという可能性~地方創生、循環の未来について~』 廣済堂出版 2016年
なぜ徳島県神山町に注目のIT企業のサテライトオフィスは集まるのか
https://street-smart.co.jp/workstylelabo/why_itcompany_choose_kamiyama
神田誠司 『神山進化論』 学芸出版社 2018年
鳥栖市教育委員会 「鳥栖市日本語教育基本計画」 2015年
https://www.city.tosu.lg.jp/Material/28005.pdf
鳥栖市教育委員会 『日本語』(4冊)小学校一・二年、三・四年、五・六年、中学校 2015年
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