2018年度前期発表6 カントと宗教(キリスト教)その1
発表 竹内和正
団塊世代に属する私は、半世紀前、大学入学まで主にヘーゲル、フォイエルバッハ、マルクスの思想の流れを追っていた。入学後すぐに大学紛争が高まり、学校は「ストライキ」状態となり、自習が一年ほど続くことになった。
この間に、チェコ事件があり旧い共産主義の醜悪さ、統治不能性が露呈し、「新しい」共産主義も「ゲバ」と称する暴力によって浅間山中でほぼ死に絶えていった。
私はマルクスの流れを捨てそれを克服する為、ジョーン=ロビンソン、シュムペーター、ケインズ、ヒックスと格闘し残りの学生時代を過ごしたが、他方で気になっていたのは西洋哲学の要と思えたカントであった。
社会人になって数年した時、やっとこのカントの『純唯理性批判』を高峯一愚訳で読んで、「理性の自己展開」や「生産力の発展段階と社会革命の必然」のような議論の系統とは全く異なり、「理性の限界」を論議する冷静なカントに好もしさを覚えた。
それ以来読んでいなかったカントの『純粋理性批判』をもう一度、43年ぶりに高峯一愚訳と新たに中山元訳とで読んでみる気になった。
先ず、カントがキリスト教の「神」をどうとらえていたかを知りたかったのである。きっかけは地震であった。2011年3月11日の東日本大震災の10日ほど前、私はたまたま『方丈記』を読み終えていた。ここに元暦(文治)の京を襲った地震の記載があり素直に地震などの自然災害の事実を恐ろしく伝えていた。これに対し、泰西のヴォルテールの『カンディード』は1755年にリスボンで起きた地震を機に、ライプニッツ派の思想、神の「予定調和」論を激しく批判する思想戦を展開している。地震は神を巡る思想問題となっていた。このリスボン地震に対してカントが「神」を議論することなしに、自然科学的に考察を加えた地震論文を三つ出版しているというのをネットで見たのである。同じ地震にルソーも「神の摂理」を弁護するというようなこともあった中、カントは神をどう見ているのだろうか、これが今回読む上での関心事であった。
もう一つの関心事は、カントの自由主義的な物の見方であった。世界で、問題があるにもかかわらず、支配を続けていた「グローバリズム」(≒アメリカニズム)が後退していく中で、自由な思考も後退して行くが、それでいいのだろうか。理性に基づく自由な個人の判断による世界を考えたカントの思想は死んでいくしかないのだろうか。
その2に続く
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