2021年度前期現代研究会発表3 1990年代以降の日本における宗教観・改
2021年度前期現代研究会発表3
1990年代以降の日本における宗教観・改
2021年5月8日
杉平敦
発表のテーマそのものは、昨年度の前期・後期と変わらない。ただし、若い人に読んでもらえる本を出版するということで、主張や構成をわかりやすくするとともに、1990年代という時代に関する予備知識を補足する必要が生じた。この作業は、自分自身の目的意識を明確にする上でも役に立った。
発表では、(1)現代の日本社会で漠然と共有される「宗教は危ない」「宗教は怪しい」という感覚に疑問を呈し、(2)そうした感覚の土台が作られたのがおそらく1990年代であることを指摘し、(3)その当時の日本の世相や思想的状況、その中での宗教関連の事件、それ以降の意識の変化などを検討した。
最初に、「どうして現代の日本社会では『宗教は危ない』『宗教は怪しい』と言われるのか?」という問いを立てた。それに対して、「現代の日本社会では、宗教が『他者』『非日常』に属するものと見なされ、自分とは関係ないもの、理解できないものの位置に置かれるから」という、暫定的な答えを示してみせた。以後の発表は、この「問い」と「答え」に沿う形で行われた。
次に、若い読者を想定して、1990年代という時代の雰囲気を簡単に説明し、その時代に宗教団体が引き起こした代表的な事件を列挙した。ただし、それらの事件が日本における宗教への忌避感・差別意識の引き金となった可能性は指摘しつつも、宗教関連の事件の存在が宗教への忌避感・差別意識に対する十分な説明にはならないことは強調した。事件を起こしたのは一部の宗教団体であり、それらの団体による事件を理由として「宗教は危ない」などと過度に一般化して語ることはできない。また、事件を起こした団体にしても、宗教団体であること以外に様々な特徴があり、それらすべての特徴の中から宗教団体であることを殊更に強調する理由もない。
発表では、これら1990年代における宗教をめぐる論調を考える上での参考として、「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」「神戸連続児童殺傷事件」を取り上げた。これらの事件が、事件そのものの性質として「オウム真理教事件」その他の宗教関連の事件と似ているというのではない。それを捉える際の「捉え方」、つまり、上記のような「過度の一般化」と「一部の特徴の恣意的な抽出」が共通しているということだ。ある時は「オタクは怪しい」、ある時は「子供が分からない」、そしてある時は「宗教は危ない」というように。これらの事件を受け止める世論は、事件の当事者たちを自分とは関係ない理解不能な「他者」の位置に囲い込んだものと言えよう。
他方、それらの事件を受けて書かれた吉本隆明や柄谷行人ら知識人の著作には、宗教を「自分とは関係ないもの」「理解不能な他者」として論じる姿勢は見られない。むしろ、自分たちの属する社会の不可欠な一部として受け止めようとする意志が見て取れる。ただし、そこで求められた宗教の役割は、すべての時代や地域に共通する「普遍の倫理」を呼び出すことであり、宗教は倫理的である限りにおいて肯定されるとされた。その役割に見合うものは世界宗教のみであるともされていたが、人類史を振り返ってみれば、世界宗教といえども始まりは倫理(特定の時代・地域のものであれ、それら時代・地域を超えた普遍のものであれ)の命ずるところからどうしようもなく逸脱してしまう人たちの受け皿だったはずであり、むしろ、そうした人々を受け止めることこそが、時代と地域を超えて様々な宗教が果たしてきた宗教普遍の役割ではなかっただろうか。
最後に、1990年代からそれ以降の時期にかけての意識調査の結果を紹介した。若い人たちは、多くの場合、自分自身か家族が実際に宗教行事に参加しており、その意味では宗教は彼らの身近にあると言える。しかし、「宗教が身近にないから関心がない」と答える人も多く、宗教は彼らにとって「身近ではあるが、そうとは意識されないもの」であると捉えることができる。その他に、「宗教が必要だ」という回答は2000年代に入ってから微増、「宗教はアブナイ」という回答は2000年代に入ってから微減してきていること、「必要か否か」「アブナイか否か」でクロス集計をすると「どちらかといえば必要だが、どちらかといえばアブナイ」との回答が最多となるやや矛盾した傾向が見られることなどが示された。宗教は、日常の中においてすでに実践されていながら、どこか自分とは縁遠いものとして捉えられていることは否定できないし、いまだに忌避感や差別意識の対象となっている。しかし、そうは言ってもやはり必要との声も増加しつつあり、何らかの形で折り合いをつけようとしている様子が垣間見られる。宗教を身近なものとして受け入れたり、これと和解したりする上で、宗教への警戒感や忌避感を解除することは、必ずしも必要ではないのかもしれない。
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